神聖ヰリヤ帝国・TOPへ〈UNCLE〉養成学校で1日講師をつとめたソロが、過去の牢番のなぞの死と、奇怪な暗号を解きあかす。

9マイルは遠すぎる……か?

二、

「よう。はじめての講義にしちゃ見事な出来だった。よくやったな、ソロ」
「はは。どういたしまして。教官殿によい例文をいただいたおかげで、どうやら格好がつきました」
廊下に出ると、教官が豪快に笑い、手をさし出しながらソロに向かって歩いてきた。ソロがその手を握りかえすやいなや、教官はソロの手首をつかんで投げ飛ばそうとした。すかさず体勢を入れ替え、ソロは教官を投げ飛ばした。
投げ飛ばされると同時に教官はストップ・ウォッチを取り出し、ソロを苦笑させた。
「あーあ、まだこんなことやってんですか、ここじゃ」
「当校の伝統だからな。常在戦場の心がまえだよ。……4.2秒、不可だ。おぼえとるかソロ、目標は4秒フラットだ。きさまは、あの年度の最優等だったはずだがな」
「もうちょっと教官殿がダイエットしてくだされば、4秒なんて軽く切れますが……」
「なんか言ったか?」
「いえ、なんでもありません」
「この野郎、ちょいと反応が鈍ったな?」
「大目に見てくださいよ〜。いま休暇中なんですから」
「何ぬかしやがる。敵はいつ、どこに潜んでるか判んねえんだぞ。……まあいい、おれの部屋へ来い。一杯やろうや」
言いながら教官は、暖かい大きな手で、ソロの背中をばしばし叩いてきた。



「ねえ教官殿。あれは……イリヤのことなんでしょ?」
「……はん? そんな名だったかな、あの金髪坊やは」
「これだからなあ。教官殿は卒業して何年たっても“金髪坊や”としか呼んでくれないって、イリヤが時々ぼやいてますよ。かれだって、つい先日、この島にしばらく滞在してたんでしょ。それなのに、名前も覚えてやらなかったんですか?」
「冗談いうねえ。ここの卒業生がこれまで何人いたと思ってやがんだ。いちいち名前なんて覚えてられっか。それもあの坊やのは、めずらしい名だしな。……まあいい、夜は長え、じっくり話そう。まずは乾杯といくか」
「は。覚悟はしてきました。……この通り」
言いながらソロが、さりげなくバーボンを取り出すと、教官はたちまち相好をくずした。
「これこれ。おれの好みの酒、ちゃんと覚えててくれてやがって。だから、きさまの名だけは特別に覚えてやったんだ、こん畜生め」
「はは。みじかくて覚えやすいからでしょ」
「まあな。で……サカナは、こいつだ」
卓のまんなかにドンと置かれたものを見て、ソロは苦笑した。
「ああ、またですか……ご存知でしょ? まぐれで時々強いだけのヘボですよ、ぼくのチェスは」
「知ってら。だがまあ、喋りついでにつきあえ。このおれ様とまともに勝負できる奴ぁ、この島にゃもう居ねえんだ。おかげでここじゃ、おれぁ年じゅう退屈してんだ」
「はいはい」
駒を動かし、酒杯をかたむけつつ、教官はぼそりとつぶやいた。
「……で、その金髪坊やが、なんだって? あんまりおれが酔っぱらっちまわねえうちにしろよな、ややこしい話ぁ」



「ですから、あの例文。『ぼくだけ暗号課で1ヶ月よけいにシゴかれた』って教官殿に言ったの、イリヤだったんでしょ?」
「なぜそう思う?」
勝負の形成あきらかに有利な教官は、捕ったソロの駒を手の中でころがしつつ、訊きかえした。
「講義のときみたく、カッコよく理論だてて言ってみねえな。……その推論の理由を述べたまえ、ミスター・ソロ?」
「はあ。まず、1つには」ソロは、頬づえついて次の一手を思案しつつ、答えた。
「講義で結論が出たでしょ。あの発言のぬしは、外国人だと。それも、かんたんに代りの人間を呼べないような国の出身者だと」
「ああ。だがそんな国の人間なら、他にいくらでも居らぁな。で?」
「理由の2つめ。……なにか例文を出してくれとぼくが頼んだとき、教官殿はぼくを見てましたね」
「それが?」
「急にひとから乞われて、ふと思いつく文てのは、なにか連想したきっかけがあるものなんです。でなけりゃ、ふつう『私はミルクが好きです。体にいいから』とか、そんなかんじの平凡な文しか出てこないですよ。これはケメルマンの『9マイルは遠すぎる』にも書いてあります」
「ふん、おれはガキの時分からミルクが大嫌えだ。いくら体によくても……それで?」
「教官殿はぼくを見て、相棒であるイリヤを連想した。さらに『9マイル』って数字つながりで『1ヶ月』ってことばを連想した。そして、いまの任務につく前、イリヤはしばらくこの島にいた。あの例文は、そのとき聞いたセリフなんじゃないかな、と。以上の理由で、教官殿の記憶から、あの一言が無意識に浮び上がってきたんじゃないかと推理したんです」
「……言われてみりゃ、たしかにその通りだ。すげえな。……で?」
「理由の3つめ。イリヤの母国語であるロシア語ってのは、ある意味で特殊なんです。たとえば、ニホンやシナの漢字、右から左へ書くアラビア文字、数学記号みたいなギリシア文字、ああいうのはパッと見て、どこのことばか判るでしょ? 英文に混じれば、すぐ見分けがつく。
ところが、ロシア語……つまりキリル文字ってのは、英語のアルファベットとおなじ文字を使いながら、べつの読みになるものが、いくつかあるんです。英語の『N』はキリル文字では『H』だし……これはクリスティの『オリエント急行殺人事件』のトリックになってますね……『R』は『P』だし、『S』は『C』、『V』は『B』……なにしろ、ややこしい。
いわばロシア語そのものが、一種の暗号みたいなものなんです」
「……」
「たとえば英文にキリル文字を混ぜた、あるいはキリル語に関係ありそうな暗号文が、とつぜん、それも大量に出回ったとしたら? 早く、たくさんの暗号文を解読するには、ロシア出身者の手助けがあれば大助かりでしょう。養成校出たてのヒヨコちゃんだろうが、卒業したてでヘロヘロで、ぶつぶつ文句言おうが、かまわない。1ヶ月だけと拝みたおしてでも、暗号課にひっぱりこむはずだ。……どうです?」
「ソロ、大したもんだなあ、きさまは。さっきの講義も面白かったが、もっと面白えや」教官は膝を叩いて、うなった。「日ごろの退屈が吹っ飛ぶぜ。それで?」
「はは、どうも。あとは大した理由じゃないんです。……ぼくがイリヤと組むまえ、かれの卒業は事情があって1ヶ月ほど遅れることになると、課長に言われたのを思い出したんです。まさか、落第でもしたんですか? と冗談に訊いたら、そうじゃないが、ちょいとワケありでな、これ以上は答えられん、と教えてもらえなかったっけ」
「なるほどな……」
しばし沈黙のあと、教官は、ぼそりとつぶやいた。
「……お見事な推理だ。しかしチェスのほうは相変らずヘボだな。おおかた、脳みその担当部署がちがってんだろうな」
「はは、おそれいります。教官殿が強すぎるんですよ」
あいまいにうなずいた教官は、みょうに重い口調で、つけ加えた。
「ソロ……あの金髪坊やも、チェスをやるのか?」
「はあ。イリヤは何をやらせても、小憎らしいほど器用ですから……」駒を進めつつ、ソロは答えた。
「……でも、ずばぬけて強いってほどでもないですよ。ま、ぼくよりちょっと強い、かな?」
「だったら大したことねえな」
ソロは肩をすくめ、教官は上機嫌の声で「チェック・メイト」を宣言した。

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