9マイルは遠すぎる……か?
四、
ソロがこの島へくる少しまえ、イリヤは1人でこの島をおとずれ、しばらく滞在した。
イリヤが射殺したネオナチの若い男が、ぐうぜんイリヤに生き写しで、その男に化けて敵方に潜入するという任務を負ったためだった。
(当然、イリヤはしばらく単独任務になる。その間、ソロは特別休暇がもらえる、ということになっていたわけだ)
この島には、練習生たちに拷問に耐える訓練をほどこす任務についている、ナチ将校の息子がいる。この男を参考に役づくりすることを、イリヤは上層部から命じられていた。
その男のコードネームは〈メンゲレ殿〉……本名はだれも知らない。教官仲間も、訓練生たちも、恐怖と畏敬をこめて、かれをこう呼んだ。
メンゲレは所内のだれとも親しくならず、孤立していた。いかにもゲルマン的精密さと正確さで、訓練生たちを心身ともにギリギリの崖っぷちまで追いつめる。そして、この者にはどういう責めがもっとも効果的で、どんなトラウマをかかえてるか、弱点を探りつくし、データをまとめて上層部に報告するという役目を負っていた。
「あの金髪坊や、ナチみてえな軍服着こんで、ずっとメンゲレの野郎に張りついてやがったよ。メンゲレのほうも珍しく、まんざら嫌でもなさそうだったな。いつもは誰かにつきまとわれるの、大嫌(でぇきれ)えな奴なんだがな」
「へええ。あのお人がねえ」
「はっきり態度に出すような奴でもねえけど、何となくそんな雰囲気だった。おおかた、あの坊やの軍服のせいだろう。あの金髪によく似合ってたしな。……そうそう」
「なにか?」
「ちょうど廊下ですれちがったとき、小耳にはさんだ。あの坊や、メンゲレの野郎にカーロフのこと訊いてたっけ。『そういえば、あのチェスの強かった牢番の人、すがたが見えないけど辞めたんですか?』ってな。メンゲレの野郎、『ああ、いま、この島にはいない。ちょっと事情があったようだ』とかなんとか、めんどくさそうに答えてたよ」
「……『チェスの強かった人』? たしかにイリヤはそう言いきったんですか?」
「ああ。“チェスが強いってウワサの人”なんて、ぼかした言いかたじゃなかったぞ」
「おかしいな。まるで、手合わせしたことあるような言いかたに聞こえるなあ……」
「きさまもそう思うか。たしかに、みょうだよな。知ってのとおり、ここじゃ練習生が、学校関係者と必要以上に親しくするのは、最大のご法度。現場を見つかりゃ即、退学だ。……たとえ、牢番でもな」
「学校関係者と練習生は、在校中は軍隊なみに上下関係きっぱりが校則ですからね。卒業さえしてしまえばこのとおり、さしむかいの無礼講も許されますけど」
ソロの軽口に、ガイ教官はうなずきつつ、
「そうだよ。あの金髪坊やが卒業してここ離れた日に、カーロフは海に飛びこんだんだ。そのあと接するヒマなんざ、あるわきゃねえや。とすると一体、いつ?」
「考えられませんねえ。親しくするのがどうとか以前に、養成学校でのハードな訓練中、いっときでもチェスで遊ぶ余裕があったら、人間ワザじゃない」
「だからさっき、あの坊やはチェスが強えのか、って訊いたんだ。よほどのチェス狂なら、ヒマと人目をぬすんでひと勝負ってこともあるかな、と思ってな」
「とんでもない」ソロは手を振って否定した。「たしかにイリヤの趣味は幅広いけど、チェスはぼくと同じで、たしなむ程度ですよ。……それについては、イリヤ本人に訊いてみなかったんですか?」
「訊いたさ」ガイ教官は即答した。
「おれの眼の届かねえとこで、こっそりカーロフと慣れあってやがったのかな、と思ってな。坊やは答えた。『何もしてません。そういえば、たった一度だけ、通りがかりに落とした駒を拾ってさしあげたことがありましたけど。あのとき、あの場で教官殿も確認しておられたじゃないですか』なんて言いやがった。おれは全然おぼえてねえんだけどな」
「ははあ。たしかにそれじゃ、問題にもなりませんねえ」
「だろ。坊やはなにも知らねえんだし、みるからに忙しそうで、ゆっくり話す機会もなくてな。それ以上は訊けなかった」
「判りました。あとでイリヤから、さりげなく情報集めてみます。教官殿は『カーロフ殿のチェスの駒を拾ってやった、教官殿も確認したはず』のときのこと、なんとか思い出してみてください。
それと、そのカーロフ殿のノート、しばらく預からしてください。ぼくはあした朝一番で帰らなきゃなりませんが、休暇の間に、いろいろ考えてみますから」
「ああ。ノートは朝までに探しとく。……おっと、もう夜明けじゃねえか。とうとう呑み明かしちまったなあ」
そのことばにソロが顔をあげると、窓の外はもう、白々と初夏の夜明けの空の色だった。
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