神聖ヰリヤ帝国・TOPへ〈UNCLE〉養成学校で1日講師をつとめたソロが、過去の牢番のなぞの死と、奇怪な暗号を解きあかす。

9マイルは遠すぎる……か?

六、

そして、つぎの休暇。NYの、とある店にて。
入口から顔をのぞかせたソロに、教官は手をあげ、ここだと合図した。
ソロの背後から、女性がちらっと顔をのぞかせたが、教官と眼が合うなり、あわてたように逃げた。
「なんでえソロ、女連れか。お邪魔だったか?」
「お気になさらずに」ソロはすました顔で答えた。
「彼女、自分の眼で確認しに来ただけですから。今日これからお昼いっしょにとるのは、養成学校の教官殿だっていくら言っても、信じてくれなくて。……このごろずっと、すねてんですよ。ぼくがべつの娘とリゾートに行ったの、どっからバレたんだろ?」
「相変わらずだな」
教官はため息をつき、ソロの笑顔から眼をそらした。



注文がすむなり、教官はかみつきそうな勢いで言った。
「さあソロ、さっさと話しやがれ。わざわざ、NYくんだりまですっ飛んできてやったんだかんな。あれ以来おりゃぁ気になって気になって、夜もろくろく眠れやしねえ」
「まあまあ、おちついて。これから順々に話しますから」ソロはにこやかに言った。
「これがおちついてられっか。長年の謎が、やっと解けるんだ。さ、早く……」

「タイミングですよ」
くすくす笑いながら、ソロは語りはじめた。
「結論からいうと、すべてタイミングが悪かったってことです。
イリヤの、なにげない発言……『ぼくだけ暗号課で1ヶ月よけいにシゴかれた』ってのを、教官殿が、ぼくの講義の例文として挙げた。それを生徒たちが、徹底的に意味を深読みした。たぶん、ロシア語がらみの暗号だったんじゃないか、って結論が出た。
そんな大げさなことしたおかげで、暗示にかかっちゃったんです。教官殿も、ぼくも。カーロフ殿が残したノートの、不気味な絵が、その暗示に拍車をかけた。
つまり、もしかしたらイリヤは、すごく重要なミッション、困難な暗号の解読にかりだされてたんじゃないか? ってね。だから、情報提供者だの、カーロフ殿が寝返ったんじゃないかなんて、たわいないウワサも、本当かもしれないなんて思えてきてしまったんです」
「……」
「よく考えたら、イリヤが教官殿の前で、なにげなく口にするようなミッションが、それほど重要だったわけがない。そもそも、たった1ヶ月間、養成学校出たてのヒヨコちゃんが接することの許される機密なんて、たかが知れてる。でしょ?」
「……たしかにそうだ」教官はうなった。
「ソロ、きさまも、はじめてやる講義だってんで、はりきってたもんな」
「はは、たしかに。それも不幸な偶然のひとつでした」
ソロは苦笑し、ややあらたまった口調で言った。
「謎解きの前に、すこしイリヤって人間について、知っておくべきことがあります。ぼくは相棒だから、任務のたびに痛感してるけど……」
ソロは笑顔をひっこめ、しみじみ言った。
「イリヤってのは不思議な男で、本人まるでその気がないのに、ある種のタイプの人間の運命を狂わす存在なんです。なぜかは判りませんが、たしかにそうだ……たぶん本人にも、なぜだか判ってないんじゃないかな……」
「……?」
「イリヤに会って、そうなるタイプってのは、2種類ありましてね。なぜか必ず、男なんですが」
ソロは指を立てつつ語った。「ひとつには、うなるほど大金持ちの、英国の老紳士。これはまあ、いまは関係ないので説明を省きます。もうひとつのタイプのほうが、問題なんです。心か、体に大きな“傷”をかかえた、見かけが無骨なわりに純情で、これまであまり色恋沙汰に縁がなかったような男。……どうです?」
「……つまり、カーロフがそうだった、って言いたいんだな?」
「そのとおりです。では、いつ、そのきっかけがあったか?
当然、あの時しか考えられません。カーロフ殿とチェスをしてて、教官殿が電話に呼び出され、ほんのしばらく席をはずされた、あの時。カーロフ殿はそれから様子がおかしくなった。そうでしたね?」
「うん……しかしありゃ、ほんの数分だった。歩哨だって見てた。ただ、カーロフが落としたチェスの駒を拾ってやっただけだった、と」
「それもつまり、悪いタイミングってやつですよ。じっさい、落とした駒を拾ってやっただけだったんですよ。イリヤが言ったとおりね。ただ……」
そのとき料理が運ばれてきたが、教官は目もくれず、ソロのつぎのことばを待った。
「想像してみてください。たとえば教官殿、あなたが、あの金髪坊や……イリヤだとして、ぼくが、カーロフ殿だとします。
島でたった一人のチェスの対手に席をはずされ、勝負途中の盤面を前に、ぼくは退屈しています。次に指すつもりの駒を手にして、もてあそんでるうち、地面に落としてしまった。そこへちょうど、教官殿が通りかかった。足元にころがってきた駒を、教官殿が拾った。そのあと、どうします?」
「どうするって……おれなら、手わたすかな。……あ!」
「判りましたか」ソロは料理の皿をつつきながら、淡々とつづけた。
「たぶんイリヤは、駒を、手わたさなかった。盤面をざっと見て、ここぞと思う位置へ、その駒を置いてやったんです。
あれは天気のいい日だったって、おっしゃいましたね。イリヤもずっと暗号課にカンヅメにされてて、たぶん、ようやく外へ出ることを許された日だったんです。こんなに天気がいいんだから、すこし外の空気を吸わせてください。そうゴネて、許可をもらえたのかもしれない。
ふだんならイリヤは、よそ様の勝負にわりこむような野暮はしない奴なんですが。慣れない暗号課に閉じこもって、えんえん暗号解読の事務作業の日々のあと、陽あたりのいい戸外に出たんです。解放感から、多少はしゃいだ気分になっても、ふしぎじゃない。でしょ?」
「そうだった、あの日はピーカンの上天気だった。だからこそおれたちは、官舎のウラ庭にチェス盤もち出して……」
教官は過去をなつかしむ老人のように、眼を細めた。「そういや、あの金髪坊や、あんな神経質そうな顔して、意外と茶目っ気ある奴だったよなあ……」
「はは、おっしゃるとおりです。イリヤにしてみれば、ほんのいたずらのつもりだったんでしょう。
盤面をざっと見て、勝敗のゆくえ、指し手の実力もほぼ読めたでしょう。うまい手だ、あなたが勝ちそうですね、くらいの声はかけたかな。……いや、イリヤはきまじめだから、それすらも禁じられた学校関係者との私語だと思ったかな。たぶん、にっこり笑ったくらいのところでしょう。でも、それで充分だったんです」
「……なにに充分なんだ?」
「イリヤのために運命を狂わされるには、です」
ソロはきっぱり断言すると、ひと息ついて、つづけた。
「カーロフ殿は、ことばもほとんど話せず、身寄りもない。読み書きもできなかったなら、外部との手紙の行き来もなかったでしょう。あの島で、個人的に親しくしてたのは、教官殿だけ。そうでしたね?」
教官が無言でうなずく。ソロはさらにつづけた。
「チェスのお相手なら、ほかに何人かいましたが、ほかのチェスの相手は、かれには理解できない理由で、いつのまにか、みんな島からいなくなってしまいました。そこへ……」
「……ああ!」
「ようやく判りましたね、教官殿。そこへ突然、イリヤがあらわれたんです。
学校関係者との私語をさけて、声はかけなかったでしょう。しかしたぶん、カーロフ殿にとっちゃ、盤に触れ、駒を置いたら、それが会話だったんです。いや……もしかしたら、会話以上のものだったんです」
「……」
「その場を見ていた歩哨でさえも、このていどなら見とがめるはずもない。イリヤ本人だって、教官殿にきかれてはじめて、そういえば、と思い出す程度の、ささやかな出来事です。……しかしカーロフ殿には、大事件だった。思いがけないことだったから、よけい衝撃が大きかった。あの事件のてんまつは、つまり、そういうことです」



「しかし……ちょっと待てよ、ソロ」
話し疲れたソロは、もくもくと料理を口に運んでいた。圧倒されつつ聞いていた教官は、いっきに皿の中身をかきこんだあと、不審げな口調で言った。
「やけに自信たっぷりに語ってるが、それは、あの金髪坊やに確認して、ウラが取れてる事実なのか?」
「じつをいうと、そうじゃないんです。イリヤはいま、例のネオナチ将校に化けて、敵方に潜入中なんでね。だから本人に確認はしてない。でもたぶん十中八九、ぼくの推理どおりと思います。いわば、相棒としてのカンでね」
「ふん。カンだけか。ミスター・ソロ、おみごとな仮説だが、ちと説得力に欠けるんじゃねえか。こんな途方もない話、いきなり信じろったって……」
「証拠があるとしたら、どうです?」
「……証拠だと?」
「例のノート、お持ちですか?」
「ああ、持ってきた。どうせ、謎解きに必要になるだろうと思ってな」
教官はすばやくノートを取り出し、ソロに手渡そうとした。ソロはなぜか、手でそれをさえぎり、料理の皿を横に片づけつつ、ていねいな口調で言った。
「どこでもいいですから、絞首台と松葉杖の絵の描かれたページをひらいて、テーブルの上に広げてください」
「……こうか?」
ソロは静かな、しかし熱をおびた口調で言った。
「イリヤが島を発つ前夜、教官殿は官舎で机に向かって、名簿からイリヤの名を消そうとしてた。そうでしたね?」
「ああ」
「そこへカーロフ殿が入ってきて、名簿を指さし、いりや、と片言で言った。そうだ、よく読めたな、と教官殿は答えた。そうでしたね?」
「……ああ」
「つまりカーロフ殿は、机の反対側から、その文字を読んだ。……というより、見たんです。……こういうものを、です」
言いながらソロは、ノートをぐるりと180°回してみせた。ひとめ見るなり、教官の眼が、倍ぐらいに大きくなった。

図2 カーロフのノートの絵「……あー!!」
「判りましたね。これ、“ILYA”って書いてあるんですよ。
絞首台と、松葉杖なんて縁起でもない不気味なものに見えたのも、悪い偶然でした。だからこそみんな、何かの暗号か、敵方から脅しにあってたのか、と思いこんでしまった。
カーロフ殿はただ、逆向きに見たILYAって文字のならびを、教官殿が『よく読めたな』って答えたことで、これが正しいと思い、おぼえこんでしまった。そしてそれを、ひたすら書いてただけだったんです。くりかえし、くりかえし……」
「……」
「カーロフ殿が、あのときチェスの駒を盤に置いた男の名がイリヤだと、どうやって知ることができたか。なぜ、教官殿が名簿から消そうとしてる文字が、そのイリヤの名だと判ったのか……そこまでは、ぼくにも判りません。チェスの闘いかたを熟知してたカーロフ殿の脳は、何かに熱中すると、とことん鋭いカンが働くのかもしれませんね」
「それで、あのとき、おれが膝の上に広げてたノートを見た瞬間、わかった、と言ったのか……」
「ええ。ぼくの位置からは、ちょうど逆向きに見えましたから。その絵の意味を知った瞬間、一連の事件の流れが見えた。あとはイリヤって奴についての知識、それだけです」
「……」
「判りますか、教官? あなたがカーロフ殿に教えたABCも、まったく無駄じゃなかったってことですよ。かれは字というより、絵として理解してたかもしれませんが」
「でも、そんな余計な知識のおかげで、カーロフの奴ぁ情報提供者だの、裏切り者だのってウワサになっちまったんじゃねえか……こん畜生め」
「ウワサなんて、どうでもいいじゃありませんか。事実はこうだったって、はっきり判ったんですから」
「よかねえ。なにもかも、おれのせいだ」
「そんなにご自分を責めることは……」
「いや、おれのせいだよ。いちばんカーロフのそばにいたこのおれが、本当は気づいてやらなきゃなんなかったんだ。カーロフの野郎、自分ではどうしようもないほどの気持をもてあまして、訴えようもなくて、どうしていいか判んなかったんだろう。この島じゃ誰よりあいつと接する時間が長かったくせして、奴の気持の変化に、まるで気づいてやれなかった。おれも、むかしっから色恋沙汰は苦手だったが……ソロ、きさまの色恋方面のありあまる才能を、少しでいいから分けてほしいぐれえだ。カーロフのほうがずっと、おれよか上等の人間なんじゃねえか。畜生、こん畜生め!」
「ちょ、ちょっと。こんなとこで泣かないでくださいよ。なにが起きたのかと思われるじゃありませんか……」
「うるせえソロ。おれの顔、見んな。あげくの果て、情報提供者なんじゃねえか、裏切り者なんじゃねえかなんて、疑ったりまでしてよ。ああ、おれは間抜けだ! 最低だ! これじゃカーロフが気の毒すぎる。あんまり哀れすぎる……」
「ぼくは、そうは思わないな」静かだが、きっぱりした口調で、ソロがさえぎった。
「カーロフ殿、いがいと倖せだったんじゃないかな。かれにチェスを教えたのは、教官殿じゃないんでしょ。たしか、この島に来たときはもう、チェスがすごく強かった。そうでしたね?」
「……ああ」
「だったら誰か、カーロフ殿にチェスを手ほどきした、親しい人がいたってことですよ。
そのあと、流れついた島で1人だけ生きのび、毎日、大好きなチェスざんまいで過ごした。チェスの相手をしてくれ、字まで教えてくれる、本気で接してくれる人もいた。そして、そのチェスのおかげで、いささか変則的とはいえ、最後にちょっとは胸こがす想いまで出来た。どうです? それほど不倖せだとは思わないな、ぼくは」
「……だけどよう」教官は泣きつかれた幼児のような声を出した。「情報提供者じゃなくて、任務失敗での自決でもねえってんなら、カーロフはなぜ、海に飛びこんだりしたんだ?」
「そこまでは、さすがのぼくにも判りません」ソロはいさぎよく、かぶとを脱いだ。「まさか、泳いで船に追いつけると思ったわけでもないでしょうが……ただ、ついて行きたい、いっしょに行きたい、置いていかれたくないって気持でいっぱいだったのかもしれない。絶望しての自殺だとは、思いません。それだけは言えます」
「心の底からそう思うか?」
「心の底からそう思います」
ソロのきっぱりしたことばに、教官は目を腕でぬぐい、しみじみと言った。
「もしもいまカーロフが生きてたら、ラチってでもあの金髪坊やを奴の前に連れてきて、思うぞんぶんチェスの相手さしてやるんだがなあ……」
「まともに勝負したら、きっとガッカリしたと思いますけどね」
「ようし、こんどあの金髪坊やが島に来やがったら、代りにこのおれが勝負して、こてんぱんに叩きのめしてやる。カーロフの奴の、とむらい合戦だ」
教官は独りごとのように、やたらといきまいていたが、ソロはもう相づちも返さず、ほとんど聞いていなかった。
ふと窓の外に眼をやると、この季節のNY名物といえる、夏服を着た美しい娘たちが通りをゆきかうのも見えたが、それすらも、そのときソロの眼には入っていなかった……かれには、めずらしいことだったが。
ソロは考えていた。たった1つのチェスの駒のために、不自由な脚をひきずり、海に飛びこむ破目になった男のことを。
そして、そのたった1つのチェスの駒を、たわむれに盤に置いてやったばっかりに、本人まったく知らないところで、その男の運命を大きく変えることになった……イリヤという不思議な男のことを、考えていた。



店から出るころには、教官は、いつもどおり元気いっぱいの名物教官に戻っていた。
別れぎわ、教官は、だしぬけにソロの肩に手を置いてきた。また投げ飛ばす秒数でも計るつもりかと、ソロが思わず身がまえながらふりむくと、思いのほか真剣な顔で、かれは言った。
「きさま、魔性って、信じるか?」
「……」ソロは答えなかった。
「これからも、あの金髪坊やとつるんで、やってくってんなら、くれぐれも用心しろよ、ソロ」
「大丈夫ですよ、ぼくなら」
「そうか」教官は笑った。
「大丈夫だな、きさまなら。なにしろ、〈UNCLE〉NY本部の特務課主任、ほまれ高きトップ・エージェント様だもんな」
「そうですよ」
ソロも笑いかえし、あらかじめ用意しておいた、とっておきの決めゼリフを吐いた。
「〈UNCLE〉特務課でトップ・エージェントをやるのは、容易なことじゃない。しかもイリヤが相棒なら、なおさらだ」

『9マイルは遠すぎる・・か?』(了)
2005.5/15

※文中の引用は『9マイルは遠すぎる』(ハリイ・ケメルマン/永井淳・深町真理子訳)による。

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