おびえた仔犬を救出せよ(はじめてのミッション)
二、
数ヶ月後、養成学校を卒業したイリヤは、晴れてソロの正式な相棒となった。
ひさしぶりに見るイリヤは、ひとまわり大きく見えた。眼にも、つらがまえにも、すでに諜報部員らしい自信がにじみ出ていた。
握手のあと、そのまま手を伸ばしていきなり右手首をつかんでやると、イリヤはすぐさま左手で拳を作って腰に当て、体をひらいて反撃態勢をとった。
「よくできました。……〈UNCLE〉養成学校の名物教官に、だいぶシゴかれてきたようだね?」
イリヤはちらりと上眼づかいをし、照れたように笑った。
はじめて会った日の、はにかむような笑顔がほんの一瞬、戻ってきた。
イリヤの動きの反応のすばやさ、銃の扱い、車の運転には、ソロも唖然とするほどの才能があった。
大酒呑みの多いロシア人のわりには、酒量はほどほど。勝負ごとは、ブリッヂ、チェス、ダーツ、アーチェリー、すべて人並み以上にこなした。
ロシア人にはめったにないことだが、服装の趣味も洗練されてるし……本人いわく、これは英国人の家庭教師から、キングス・イングリッシュと、紅茶の正式な淹れ方とともに、徹底的に仕込まれたんだそうだ。
礼儀作法、語学は文句なし。正装の着こなしは抜群。諜報部員になくてはならぬ、社交の基礎はできていた。
なにより、はば広い趣味を持ってはいるが、のめりこんだり、溺れたりするほど熱中はしない。
このバランス感覚こそ、諜報部員には欠かせない要素なのだ。……つまり、敵につけこまれる“弱み”を、もたないことが。
雑学の知識は、汲めども尽きず、はかりしれないものがある。好奇心は旺盛なようだ。
演劇的才能もあるようで、みょうな変装をよろこんでしたがるあたり、つくづくこの稼業向きの体質だといえた。
身の回りすべてのものに、こだわりが強く、好みがうるさい。
味覚はとくに、きつすぎる刺激的な味を、ひどく嫌った。マスタードだの胡椒だの、日常的な香辛料さえ、少しでも効きすぎてればダメなのだから、極端に辛そうなものや、風変りなスパイスの使われた珍しい料理などは、喰わず嫌いと言われようとも、けっして手をつけようとしなかった。
体にふれられるのも、同性の友人相手、ふざけ半分でさえ、極端にいやがる。
じつをいうとソロには、これがいちばん意外だった。なにかというとベア・ハグやら頬にキスやら、濃厚に触れ合いたがるのがロシア人、と思いこんでいたからだ。もっともこれは、なじむにつれ、からかい半分にソロがわざと手を伸ばすと、くすぐったそうに苦笑いするようになり、これがまたみょうに可憐だった。
酔えばギター片手に、いがいと野趣ある声で、ジガノチカ(ロシアのジプシー民謡)を歌ったりもする。
環境になじむにしたがい、ロシア人らしい人のよさ、茶目っ気、冗談好きの一面も見せはじめた。
みるからに神経質なくせに、笑うと、可愛い。はじめから愛嬌のある者の笑顔より、イリヤの笑顔は、意外性があるだけに印象的だった。しかも金髪碧眼、北方風の美貌ときては……。
たちまち局内の女性たちに、イリヤ親衛隊がぞろぞろあらわれ、ソロを苦笑させた。
まだどこか板につかないガン・ホルスター姿がまた、母性本能をそそるらしい。きまじめな分、女の扱いはまだぎこちないが、そこがまた齢相応で、たまらないんだとか。
「でもああいう、好ききらいのはげしい男に合わせるのって、大変よお」
「あーら。そういう殿方のお気に召すよう、お世話してさしあげるのが、女には楽しいんですのよ」
「ああそうですか。はいはい、かれに疲れたら、いつでもぼくに電話して。なぐさめてあげますからね〜」
しばらく、数名で組んでの任務を何回か、こなしたのち。
イリヤが、はじめてソロと2人で組んだミッションは ── それはつまり、ようやくイリヤが1人前の諜報部員とみなされた、ということなのだが ── ユーゴスラビアで射殺された博士の娘を、NYで護衛することだった。
〈UNCLE〉に保護をもとめてきたとき、ソロも本部で、その娘と顔を合わせた。顔だちも、気性もさっぱりした、可愛い金髪娘だった。ソロはぜひとも自分が護衛につきたかったが、課長は、だんこイリヤを指名した。
「なにしろ、今回の件は、ユーゴスラビアがからむじゃろ」
「はあ」
「あの国で、強い勢力をもってるセルビア人は、イリヤの生国ロシアとおなじ、正教徒じゃよ。東欧だけに、ことばもロシア語にかなり近いしの。こういう共通点が、どこかで役立つかもしれん。……どうじゃ、イリヤには手ごろな初任務とは思わんかね?」
「しかし……」
「なにより、その博士の娘さんが、初対面でイリヤを気に入ったようで『できれば、ミスター・クリアキンを』と、本人じきじきのご指名なんじゃよ。ソロくんはサポートに回って、ためしにイリヤに彼女の護衛をやらせてみなさい。そう心配ばかりしていては、かれはいつまでたっても1人立ちできんからの」
「判りましたよ。……ちぇっ」
べつにイリヤが心配ってわけでもないんだけどな。彼女のご指名とあらば、今回は引き下がるしかないか。
課長からじきじきに護衛を命じられ、イリヤは大よろこび、やる気まんまんで出かけていった。
彼女の父親である博士の専門分野は、毒ガスに関するものだった。
娘は現地で、父の死にぎわを目撃した。
彼女の話では、博士は殺される直前、かけよった娘の顔が判別できないようで、「近寄るな、こわいんだ、こないでくれ!」などと、しきりと叫びつづけていたという。
残念ながら、娘が助けを呼びにいっている間に、博士は射殺されてしまった。
博士は、監禁先から自力で逃げ出してきたらしく、錯乱状態だったというから、精神的な混乱とも考えられる。あるいは娘にうつしたくないような、何かの伝染病にかかっていた可能性もある。
しかし、博士の専門分野から考えて、まだ一般に知られていない毒ガスの作用による可能性も、多いにある。
くれぐれも気をつけるようにと、出かけていくイリヤに、課長もソロも、かわるがわる、しつこいほど念をおした。
おしたのに……。
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