おびえた仔犬を救出せよ(はじめてのミッション)
三、
定時連絡を入れるべき時刻がきても、待てどくらせど、イリヤからの連絡はなかった。
しびれをきらしたソロがその部屋へ出かけていくと、扉を開く前からすでに、なにやら異様な気配があった。
部屋を一歩入ってすぐ、おびえた泣き声が耳に入った。
部屋の中央にある階段の下にイリヤがうずくまり、泣きじゃくっていた。すばやく見回したが、娘の姿はどこにも見あたらない。
イリヤに近づいていくと、ソロの耳に、
「ああ、ああ、こわいよう、こわいよう……」
と、ただそればかりを、繰返しつぶやいている声が聞こえてきた。
「イリヤ!」
「いやだ……ああ、来ないで、近寄らないでくれ! さわらないでくれったら!」
腕をとろうとすると、イリヤはそう絶叫してソロを力いっぱい、つきとばした。
ソロが顔をしかめて床から起き上がると、イリヤはすばやく机の下に駆けこみ、奥の壁に身をよせて小ネズミのように体をちぢこめた。動きのすばやさだけは、いつもの彼らしかった。半袖ポロの上に、ガン・ホルスターを装着している。見てくれだけは一人前の諜報部員なのが、よけい情ないな。ソロは舌打ちした。
テーブルの上にはショコラの箱が、ふたを開いたまま置いてある。ソロが用心しながら顔を近づけてみると、かすかに嗅ぎなれない異臭がした。
……ああやっぱり、そうか。だからあれほど、出かける前に注意したろうが。
目に見えるようだ。養成所で教わった、教科書どおりの注意をはらい、やれ安心したところで、不測の事態ってやつが起きたのだ。ヒヨコちゃんからやっとヒナになったばかりの、頭でっかちで経験不足な新米にありがちな失策だ。以前の相棒・ハンクの入院いらい、おれはこんなヒヨコちゃんのおもりばっかりだ。おお神様、またですか……?
ソロはげんなりしながら、煙草ケース型の通信機を取り出して、その場から課長に連絡し、現状をざっと説明した。背後ではイリヤがしきりに泣きじゃくっている。さいごに課長は、ふしぎそうにつけ加えた。
「なんだか、さっきからみょうな声がするな。……そこに犬でもいるのかね?」
けっこうな性能ですね、この通信機。そちらには犬の鳴き声に聞こえますか。ソロは冷たい一瞥(いちべつ)をちらりとイリヤに投げかけると、皮肉たっぷりに言いはなった。
「……ま、似たようなもんです」
この現状を、内心、イリヤを心配しまくってるだろう課長にそのまま報告するのは、勘弁してやろう。
「break & out」・・通信を終えて、通信機をジャケットの隠しにしまいつつ、ソロは思案した。
未知の毒ガスによるものらしいと報告したから、さっそく、本部から救急班と特殊班の一個師団が、すっとんでくるはずだ。イリヤの吸わされた毒ガスの効果が切れるより、たぶん、早いだろうな。
連中が、あの状態のイリヤに近づくのは、ひと騒ぎだろう。動きの敏捷さだけはいつものままだから、始末におえない。敵方が彼女だけ拉致して、イリヤはここに残していったのも、たぶんそのせいだろう。
イリヤに近づかず、おとなしくさせる、一番かんたんな方法は、麻酔弾を打ちこむことだ。
が、ここで使われたのが未知の毒ガスだって点が問題だ。
それがどんな成分か判らない以上、救急班は、鎮静剤すら使うのをひかえるだろう。毒ガスの作用の上に、べつの薬物の効果が重なると、化学反応で予期せぬ副作用が現れるかもしれないからだ。へたをするとアナフィラキシーという激烈なショック症状が出て、心臓さえ停まりかねない。クスリの副作用ってのは、馬鹿にできないからな。
と、すると……。
ロデオ大会の牛追いのように、投縄でも使うか? あるいは、投網でも?
それこそおびえた犬っころのように逃げまどって、大人数に部屋じゅう追い回され、よってたかっておさえつけられ、泣きわめきながらストレッチャーに拘束されるイリヤの姿が、目に浮かんだ。……
いっそ、そういう醜態を、さらしてみるかね? その一部始終を見物するのも、一興かもしれんな。
ソロの頬に残酷な笑みがこみあげてきた。ほやほや諜報部員の、これも通過すべき試練のひとつだ。恥をかくぐらいですめば恩の字、ひとつまちがえれば生命を落とす、それを思い知るのも。
任務失敗の痛手、恥をさらしたという苦痛、自己嫌悪。これから、何度でも。……ハンクも、おれも、通ってきた道だもの。
さて、どうしたもんか?
ソロはイリヤの潜りこんでるテーブルのそばへ歩み寄り、身をかがめてのぞきこんだ。
イリヤはすでに壁にもたれているのにさらに後退しようと必死で足ずりし、泣きつかれた子どものようにしゃくりあげつつ、おびえきった眼でソロを見上げてきた。
口元に拳を当てて肩をすぼめ、顔じゅう派手に涙で濡らした泣き顔は、まるで幼女だ。
なんて顔だ。なんて眼をする。
まるで、こっちがいたいけな幼女をむりやり犯そうとしてる、性犯罪者みたいな気分にさせられるじゃないか。
……もしも同性好みの傾向のある奴が、こんな無防備なすがたを見せられたら、とてもじゃないが耐えられないだろう。
いっそ、おれは部屋から出てようか?
まだ、毒ガスが残留してるかもしれないから。そう言えば、筋は通る。おれは部屋の外にいたっていいんだ。
課長への報告は済んだ。おれの任務は完了だ。醜態は、見ないでおいてやろう。
ソロは本当に、イリヤに背を向け、いったんは出ていこうとしかけたほどだった。
……待てよ。
救急班と特殊班のやつらに、あんなすがたのイリヤを見せて、いいのか?
イリヤ本人は、いまはなにも判ってないし、回復したらおぼえてもいないかもしれんから、まあいい。
しかし、その救急班と特殊班のなかに、もしもそういう趣味の奴が、混ざってたとしたら……?
いや、本人には自覚がなくとも、じつはそういう傾向をもつ奴が、いたとしたら……? そんな本性が、めざめてしまったら……?
馬鹿な野郎がいたもんだ。イリヤにトチ狂っちまったんだとさ。部外者には、それですむだろう。
しかし、このおれは? そして、課長はどう思う?
課長から叱責され、責任を問われるのは、イリヤよりむしろ、このおれだろう。
(……ソロくん、いったい何をしていた。任務を遂行しつつ、イリヤを護ると同時に、イリヤから周囲を護ること、わしはきみにそれを期待すると言わなかったかね)
ソロはその瞬間、例のなぞめいた課長のセリフを、直感で理解した。
このままにしておいてはいけない、あんな無防備なイリヤを人目にさらしては危険だ、イリヤ本人より、周囲が。……そういう警報が、頭の中でひびきわたった。
その時期の、そのとき、なぜそれが自分に判ったのか。あとで思いかえすたび、ソロは自分でもふしぎだった。まだイリヤのことを、それほどよく知ったわけでもなかったのに。
だが、危機に敏感な、こうした勘が働くからこそ、いままで何度も、生命の危険をきり抜けてこられたのではなかったか。ソロは、そんな自分の勘を、信じてみることにした。
ああもう本当に、なんて厄介な相棒なんだ。
ソロはいまいましげに大きく肩で息をつくと、しばし、顎に手をあてて考えこんだ。さて、どうしたもんか。
そこに犬でもいるのかね。おびえた犬っころのように……ああ、そうだ。
ソロは隠しからピル・ケースを取り出した。鎮静剤、睡眠薬、劇薬など、諜報部員がいざという時のため持たされる薬の一式だ。
上着を脱いで小脇にかかえ、ピル・ケースを掌に隠すと、腹ばいになり、匍匐(ほふく)前進でじりじりイリヤに近づいていった。
高い位置から見下ろされる威圧感は、相手の恐怖を倍加させる。犬や猫がケンカのとき、伸び上がって逆毛を立て、体を大きく見せようとする、あの原理だ。
子どもを叱るとき、母親がしゃがんで子どもの目線に合わせるように、まずは視線の位置を下げること。
単純だが、効果大だ。予想どおり、イリヤは静かにしゃくりあげながら、まじまじとソロを見下ろしている。
ソロは、そっとピル・ケースを開けた。
なるべく粒が大きく、めだつ色のクスリを選び、腹ばいのまま指先を器用に使い、子どものころ鍛えたおはじきの要領で、ピンとはじいた。……まったくこの稼業、いつ、なにが役に立つか判らんものだ。
クスリはころころ転がり、イリヤの1メートルほど手前で止まった。
イリヤのまだ涙に濡れた眼が、まんまるに広がり、その動きを無心に追った。……まるで赤ん坊だな、まったく。
もう1つ、つづいてもう1つ。もっと、あいつの近くに。
まだあの肩には力が入ってる、警戒心を捨てきれてない。
錠剤をつぎつぎにはじき、イリヤがそれに目を奪われてるすきに、すこしずつ、そばへとにじり寄っていった。
子どものころ、ソロの家では仔犬を飼っていた。
おすわり、じっとしてろ、と命じても、好奇心旺盛な仔犬は、動くものを見ると追わずにいられなかったっけ。
およそ動物には、とくに幼いうちは、生まれつきそういう本能がある。本能には、さからえないはずだ。
錠剤のひとつが、うまいぐあいにイリヤのすぐ足元まで飛んでいった。
イリヤはまさに仔犬のように、ひょいと手を伸ばし、それを押さえた。
イリヤの視線と、意識がすべてそこに集中した瞬間、ソロは間髪入れずとびかかり、かかえ持っていた上着をイリヤの頭からおっかぶせた。
たちまち、さきほどまでの泣き声が復活する。イリヤは壁を背にしていたので、さほど手間はかからなかった。全力であばれるイリヤを夢中で壁におさえつけ、どうにか、鳩尾(みぞおち)に当て身を喰らわせることに成功した。
まさにその瞬間、救急班と、特殊班がどやどや部屋に入ってきた。
上着をどけてみると、イリヤはあのみごとなプラチナ・ブロンドをひたいに乱し、眼をわずかに開いたまま、気絶していた。
「やれやれ。あんまり手間をかけさせなさんな、仔犬ちゃん」
ソロはひたいの汗をぬぐうと、手を伸ばし、その眼をそっと閉じてやった。
|