失楽園之記 〜ポーロック館のパートリッヂ一族〜
二、
ポーロック館は、英国の片田舎、田園風景の広がる、広大な敷地のなかにあった。
〈UNCLE〉英国本部からの情報によると、いかにも英国の旧家らしく、先代城主の幽霊があらわれるという、いわくつきのゴチック屋敷だそうだ。
ソロが村の小さな居酒屋に入り、屋敷の名をひとこと口にしただけで、酒場のざわめきがいっせいに静まりかえった。みな、胡散くさそうに眉をひそめ、だまりこんだ。すばやく十字を切る者すらあった。
数枚、紙幣を握らせると、マスターは訛(なま)りの強い口調で、そっけなく教えてくれた。
「川ぞいに村の南はずれまで行けや。いやでも見えっから」
店を出、ひたすら南へ南へと、歩いた。やがて、はるかに館をのぞむあたりまで来ると、写真で見おぼえある、あの馬車のように優雅な形のクラシック・カーが停まっていた。
「ソロ様でいらっしゃいますね。館にて旦那様がお待ちかねでございます」
丁寧にあいさつし、運転手はうやうやしく扉を開いた。
玄関先には、パートリッヂ本人が迎えに出ていた。
「やあソロくん、お久しゅう」
「ごぶさたしてます。ロデリック=パートリッヂ」
「うれしいね、フルネームで覚えていてくれたとは。……ようこそ、わが『楽園』へ」
長身で、堂々たる英国紳士である点は、むかしと変らない。握手した手は優雅で柔らかだった。ソロは拍子抜けした。からかい半分の、残忍な復讐の笑みでも浮かべていると予想していたから。だって状況からして当然、そうあるべきじゃないか……? 七年前、かれは理由は判らないながら、もっと痛々しく、切迫した眼をしていた。いま目の前にいる男は、妙にすがすがしい、澄んだ笑みをたたえていた。
意表を突かれ、ソロがどんな態度に出たものか戸惑っていると、家の中からころげ出るようにして、ばら色の頬をした、小柄な婦人が現れた。
「これが家内だよ。……マデライン、こちらソロさん。クリアキンさんのお友達だ」
ソロは彼女の手をとって接吻し、丁寧にあいさつした。
「ご機嫌麗しゅう、ソロさん、お待ちしておりましたのよ。お噂は、いつもクリアキンさんから伺っておりました。午後のお茶を、ご一緒にいかが?」
「マデライン、私はソロさんとお話があるんだ。屋敷のなかも案内してさしあげたいし。お茶の時間には必ず連れて行くから、しばらく二人きりにしてくれんかね」
「それじゃお茶は四人分、支度させておきますわ。貴方、必ずクリアキンさんも一緒に連れてらして下さらなくては嫌よ」
パートリッヂ夫人はソロに向かって、柔和に笑いかけた。
「毎日、午後のお茶の時間は、クリアキンさんは、あたくしとお話ししてくださることに、決まっておりますの。たくの主人は、お客様をすぐに独占したがって困りますわ。では、またのちほど」
夫と釣合いのとれた、見事なキングス・イングリッシュ。おっとりした口調、洗練されたしぐさ。なにより夫に向けた愛情が、全身からにじみ出ていた。パートリッヂのほうもまた、妻をいたわり、肩に手をおいて何かとやさしい気づかいをみせる。長身の夫が、小柄な妻と並んださまは、古風な英国的夫婦とはこういうものかと、微笑をさそうものがあった。
この七年間に、パートリッヂになにがあったのだろう? こんなおだやかな夫婦が、静かに余生を送る旧い館で、イリヤはいま、どうしてる? 何を考えてる?
「ソロくん、庭を案内するよ。本物の英国式庭園を見せてしんぜよう」
パートリッヂと並んで歩き出しながら、ソロはまっ先にたずねた。
「どこです? イリヤは」
「きみの歓迎のために、お送りした写真どおりの場所に、写真どおりの姿で、待って頂いておる」
「……拷問部屋に、ですか。壁に、手枷でつないで?」
パートリッヂはうなずくと、驚いたことに、手にした杖で庭園の一角を指差し、ぬけぬけと答えた。
「あそこに、むかしながらの生垣のラビュリントス(迷路)が見えるだろう。あの中心に、東屋がある。その下に、地下につづく隠し通路がある。クリアキンくんは、そのつきあたりの地下室で、きみを待っておるよ」
「……どこにあるか教えてしまって、〈隠し通路〉もないものだと思いますが?」
ソロが思わず率直な疑問を口にすると、パートリッヂは快活に笑った。
「はは、それもそうですな」
「……」
ソロは混乱し、口をつぐんだ。パートリッヂはおだやかに微笑した。
「それが判ったからといって、たどりつくのが簡単な迷路というわけではないのだよ、ソロくん。ためしにあの迷路をぶじ通りぬけて、クリアキンくんを救出してみたまえ。午後のお茶の時間までにたどりつけなかったら、きみの負けだ。罰として、きみもまた、しばらくこの屋敷に滞在して頂こう。では、わたしは家内とともに、客間でお待ち申しあげるとしよう」
そう言い残し、パートリッヂは踵をかえすと、屋敷の中へとすがたを消した。
やがて窓辺に、さっきの小柄な夫人の肩を抱き、よりそって微笑しながらこちらを眺めるすがたが現れた。なにか楽しげに語り合っては、笑いさざめくのも見えた。
これは、なにかの罠か? ソロは首をかしげつつ、ともかく迷路に踏みこんだ。
迷路は、踏むと脚をはさんで動けなくする動物用のワナがいくつも仕掛けてあったり、足元に張られた細い針金に足をひっかけると繁みから矢が飛び出して胸を射抜くようになっていたり、踏むと地面から槍ぶすまが飛び出したり……などなど、大時代な、怪しいカラクリに満ちていた。まったく、なにが「楽園」だ。用心しいしい進んでいくと、いきなり目前にオオカミが唸りながら飛び出してきて、ソロをぎょっとさせた。オオカミの背後から、ライフルを小脇に抱えた男が出てきて、楽しげに声をかけてきた。
「気をつけろよ。旦那様のお言いつけで、ここ数日、餌をやってねえからな」
「通してくれないか?」
ソロはためしに紙幣を数枚、ちらつかせてみたが、男は鼻で笑った。
「駄目だよ、戻んな」
銃や無線機はじめ武器いっさいは、屋敷に入る前、運転手に身体検査されて取り上げられてしまった。どうやらここを、丸腰で通り抜けるのは、無理のようだった。ソロはいさぎよくあきらめ、迷路を出て客間に向かった。
「降参しますよ」
両手を挙げてのソロのことばに、パートリッヂはソロにではなく、夫人に向かって言った。
「マデライン、さっきわたしが言ったとおりになったろう。ソロさんも、イリヤくんと一緒に、しばらくここに滞在してくださるそうだよ」
「まあ、嬉しいこと。メイドに客用寝室をお掃除させておかなくては。お夕飯、何にしましょうかしらねえ」
夫人がいそいそ部屋を出て行くと、パートリッヂは悪戯っぽく笑い、本棚の一角を押した。ゆっくりと壁の一部が開き、隠し通路があらわれた。
「そんなことだろうと思った。幽霊が出るなんて屋敷の造りは、たいていそんなもんです。隠し通路のせいで、音が妙な反響をしたり、風もないのに扉が閉まったりで、幽霊がいるような気がするんです。あんなブッソウな迷路をうろうろ探しまわるより、イリヤを見つける早道は、むしろこれだと思いましたよ」
「わたしも、迷路で餓えたる狼に喰いつかれるほど、きみは愚かではないと思っていたよ。……ついて来たまえ。暗いから、足元に気をつけてな」
松明を手に、通路を抜けると、なるほど、昼なお暗い、湿った地下室があった。
壁の手枷につながれたイリヤは、ソロと眼が合った瞬間、どんな顔をしたらいいか判らないというような、とまどった笑みを見せた。置かれた立場には不似合いなほど血色もよく、純白のゆったりしたシャツと身なりも清潔、虐待されている気配はない。まずはひと安心だ。が、手枷を外す鍵を持ってイリヤに近づいていったパートリッヂが、しばし魅入られたようにかれを見つめ、腕をさしのべてその頭を抱き寄せるのを見て、あるていど予想していたとはいえ、愕然とした。
パートリッヂの肩越しにイリヤは、あとで話す、と言いたげな目顔をし、まだ手枷につながれたままの手先を、ひらひら不自由そうに振って、見るなよ、と合図をよこした。ソロは、すなおに眼をそむけた。
ふたたび隠し通路を通り、客間へ引き返すまでの間、ひどく気まずかった。ソロはなんと声をかけていいか判らず、イリヤのほうも手枷のあとをしきりとさすりながら、無言のままソロの横を歩いていた。ただ一度だけ、ソロのジャケットの裾を、思いをこめてぎゅっと掴んできた。ソロもまた思いをこめ、いたわるようにその手を握ってやった。
陽あたりのいいテラスでの、午後のお茶の時間は、ふしぎなほど平和で、おだやかだった。
茶碗の底の見えぬほど濃い、しぶい英国式紅茶、たっぷりの新鮮なミルク、スコーン、プラム・ケーキ、紙のように薄く、小さな胡瓜のサンドイッチ、すべて完璧だ。パートリッヂ夫妻も、イリヤも、お茶を啜りつつ、おだやかに談笑していた。真白なシャツの裾や、ひたいにかかるプラチナ・ブロンドを微風にそよがせ、茶碗と受皿を手に笑っているイリヤは、すでに館の空気に溶けこんでいるように見えた。
そんなようすを見てると、この屋敷の建てられた何世紀も前の時代にタイム・スリップしたような錯覚に陥った。つい数時間前に飛行機で飛んできた、NYの喧燥は、すでに別世界だ。この心地よさにひたってしまいたいような、もといた硝煙臭い世界に復帰できなくなりそうな不安で、ソロはその場で一人だけ取り残されたような気分を味わっていた。
なにはともあれ、イリヤが無事でよかった。しかし……ここでいったい、何が起きてるのか。あの従順、貞淑そうな夫人は、どう理解しているのか。ソロには判らなかった。悲劇の気配だけは、たしかに嗅ぎとれた。それがどんな悲劇なのかまでは、見当もつかなかったが。
その夜、ソロがイリヤの寝室をたずねると、眼が合うなりイリヤは、ひどく後ろめたそうな顔をした。使いこんだ真珠のような色と、光沢のパジャマは、みるからに最上質の白絹。背後には、荘厳なまでに凝った彫刻がほどこされた天蓋付き四柱寝台。この館でいちばん上等な寝室をあてがわれていることは、聞かなくても判った。
ソロが口を開くより先に、イリヤは早口に言った。
「訊かないでよ。せめて、ここでは……この館にいるうちは、なんにも話したくない」
「イリヤ……脅されてるのか」
「むりやり監禁されてたのは、はじめの数日だけだった」髪を指で梳くようにしながら、イリヤはいらいらと歩き回り、言いつのった。「手錠と足錠かけられたり、部屋に鍵かけられたりしてたのはね。あとはずっと、見てのとおり、大切な客人として丁重に扱われてたよ。そりゃまあ時々は、ロデリックと、あの地下室で……」
ソロはその先をぜひ聞きたかったが、イリヤは苦い顔になって口をつぐみ、話をそらした。
「……部屋に鍵かけられなくなってからは、何度か逃げて、村までは行けた。だが村の連中は、なんでか〈お館さま〉のご機嫌をそこねるのをひどく恐れてて、よってたかって捕まえては、おれをここへ追いかえすのよ。理由を訊いても、教えてくれない。……ひどい拷問なら、どんなことでも耐えてみせる自信があった。そのために〈UNCLE〉の養成所で訓練、受けてきたんだものね。けど……こんなのは……こういうのは……」
村の居酒屋で見た、村人たちの異様なふんいきを思い出し、ソロはうなずいた。そして、慎重に口にした。
「ぼくと一緒なら帰れると、なぜ思う?」
「いま言ったように、おれ一人じゃどうしても逃げ出せなかったし。ソロ、おたくが来てくれるってことは、おれがここにいる本来の理由、ロデリックが思い出すってことだからね。おたくもそろそろここへ呼ぼう、ってあの人が言い出したとき、へえ、ちゃんとおぼえてたのか、と思ったもの」
「だろうな。奴が送ってきたお前さんの写真見たとき、ぼくもそう思ったよ」
ソロはいきなりイリヤに歩み寄ると、肩に手を置き、耳元でささやいた。
「ほんとはここが、今じゃ、そう嫌でもないんじゃないのか? ここで、このまま、こうしてるのが?」
ふと、そんなふうにも思えたのだ。午後のお茶の時間、イリヤとパートリッヂ夫妻との、なごやかなふんいきを見たときに。〈UNCLE〉ロンドン本部の報告によると、あの夫婦には、子どもがない。かれらの死後、この広大な屋敷は、領地はどうなるんだろうと思ったときに。この稼業……体を張り、命をまとにし、弾丸の雨をかいくぐり、傷だらけになり、結婚も、家庭もあとまわしにし……おれは、それがいわば趣味だからいい。しかし本当のとこ、イリヤにとってはどうなんだろう? と思ったときに。
イリヤはしばし逡巡したあと、「……ずいぶんひどいこと言うんだな」とだけ、答えた。
「冗談だよ。ぼくも先刻、ちらっとそんな気分になったから、訊いてみたんだ。……帰ろう、イリヤ。課長が心配してる」
「ソロが女の子にモテるわけ、判ったよ」イリヤは、ソロには正体のつかめない感情に眼をうるませつつ、つぶやいた。「おたくって冷たい男だなと思うときもあるけど、なんにも訊かず、こっちがいまいちばん言ってほしいと思ってること、言ってくれるときもあるからね。そんなおたくだからこそ、この〈楽園〉を終らすことができる。ロデリックもおたくになら、きっと何もかも話すよ。おれにはとうとう打ち明けなかったようなこともね」
「……」
イリヤはふと、ソロの肩先に頭をもたせかけ、きれぎれにつぶやいた。
「ソロ、おたくの言うとおりよ。ここはたしかに〈楽園〉、楽で、静かで、いいところよ。時が止まったみたいな気分になる。あの人たちは手間も、金も惜しまず、おれを大事にしてくれる。いっそ、おれみたいのは、おたくの足ひっぱってああいう世渡りしてるより、ここでこうしてるほうがふさわしいのかもって思った瞬間も、正直、あったよ。でも……なんだか、疲れちゃった……」
子どものようにソロの服のすそを握りしめたまま、イリヤが眠りにおちたあとも、ソロは寝台のすそに腰かけ、その寝顔をぼんやりながめていた。
ふと寝室の入口にひとの気配を感じ、眼をあげると、パートリッヂがそこにいた。
来ると思ってましたよ、とソロは静かに声をかけた。客間へ来ないかね、酒を用意させたから、とパートリッヂもまた、静かに答えた。
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