失楽園之記 〜ポーロック館のパートリッヂ一族〜
三、
さすがに、いい酒だった。スコットランドの誇りそのもののようなスコッチの、シングル・モルト。銘酒グレン・フィディック? と尋ねると、パートリッヂは鷹揚にうなずき、微笑した。
「ソロくん、ラビュリントス……迷路とは、なんのために作られるか、知っておるかね」
「目的は、いろいろでしょう」
貴重な滴を一口ずつ含んではじっくり味わい、ソロは記憶をまさぐりつつ答えた。
「迷路といえばまず、なんといってもギリシア神話ですな。牛頭人身のミノタウロスと、かれを生んだ母親を閉じこめた、クノソス城庭園の迷路。英雄テセウスは、ミノタウロスの異父妹アリアドネにもらった糸玉にみちびかれて、この迷路を突破し、ミノタウロスを倒した」
「さよう」
パートリッヂはうなずき、眼を細めた。
「古代エジプトのクロコディロポリスの迷宮は……これは迷路というより、迷宮だが……宮殿12、部屋数3,000という豪奢なものだった。部屋ごとに雷鳴がとどろいたり、まばゆい光が射したり、床が波うったり、凝った仕掛けがあったという。そして何人も行きつけぬ中心には、聖なる存在クロコディロと、王が、やすらかに埋葬されていたといいますな」
「教会迷路というのもありましたっけ。たしか、インディアナのどこかに」
「よくご存知ですな」パートリッヂは笑った。
「正しき道をひとすじに進む困難、悪しき誘惑の曲がりくねった袋小路、そして、達成感。……迷路とは、宗教的な修業の場でもあるのです」
「かと思えば、どこかの王さまが、愛妾をおきさきの眼から隠すために作らせた迷路もあると聞きました」
「さよう、ロザモンド宮の迷路ですな……いずれも迷路の中心には、貴重な、神聖なものが秘められ、かくされておる。いわば地上に築かれた、大がかりな組木の宝箱のようなものです。智慧(ちえ)をめぐらし、正しき手順を踏まねば開かず、中の宝を手に入れること能(あた)わず。すなわち、智慧なき者、触るるを許さず、ですな」
一拍、間をおき、パートリッヂはつづけた。
「そして、迷路は植物、宝物は人間、どちらも生きた存在によって作られておる。迷路とは、かれを外部の侵入から守る場であると同時に、内部の者を逃がさぬための、牢獄でもあるのです」
「その迷路の中心、しかも地下の隠し部屋に、貴方はイリヤを置き、ぼくを呼び寄せた」
ソロは、静かな、しかし有無を言わさぬ口調で問いかけた。
「イリヤを拉致していった時には、そんなに貴重な存在と思って、あんな大金をかけたわけではなかったんでしょう?
ぼくをはじめとする〈UNCLE〉への宣戦布告。最初はただ、そうだったんでしょう?
いったいどこから、貴方にとってイリヤは、それほどまでの存在になったんです?」
パートリッヂは考え深げに酒を啜り、すぐには答えなかった。ソロもまた黙って貴重な酒の香をききつつ、答を待った。やがてパートリッヂがようやく口にした。
「日々かれと居て、きみは本当に、なにも感じないのかね?」
「ああ、やっぱり……」聞くなりソロは頭をかかえた。
「やっぱり、とは?」
「ぼくの知るかぎりを話してもいいですが……その代り、聞かせてください。貴方がイリヤに、いつ、どんなきっかけで、いまのような想いをいだくようになったかを」
しばし沈黙ののち、もう一杯どうかね、長い夜になりそうだから、とパートリッヂは言い、ありがとう、いただきます、と、ソロは答えた。
「……なるほど……」
ソロの話を聞き終えると、パートリッヂは感慨深げに黙りこんだ。話し疲れてソロもまた口を閉ざし、しばし氷の溶ける幽かな、涼しい音だけがそこにあった。
やがて、パートリッジがようやく口を開いた。
「不思議だな、きみは。なんとなく、うちあけ話をしてみたくなる」
「それが諜報部員てものなんです」ソロはおだやかに微笑した。「この道に入ったとき、養成所でいちばんさいしょに教わる、初歩の初歩です。諜報部員とは極秘情報をマイクロフィルムに映しとって盗んだり、機密情報を金でやりとりする、それだけのものと思うべからず。相手に信用され、思わず秘密を洩らしたくなるほど親密になってこそ、本物なるべし。一流の諜報部員とは、いわば告解師でもあるのだ、とね」
「……なるほど」パートリッヂは感心したようにうなずいた。「告解師ならば、口は堅い。そう信じていいんだね?」
「もちろんです。今回の件のウラ事情も、ご希望とあらば、必要なこと以外は課長にも報告しません。ぼくの胸三寸におさめておきます……どうです、懺悔(ざんげ)なさいますかな?」
パートリッヂは笑った。「たしかに、きみは一流の諜報部員のようだね。さて、どこから話したものかな……」
「イリヤをここに連れてきたとき、私はとつぜん、気づいた。ひとつの美しい迷路が完成したことを。さっき話したね、迷路は地上に作られた、大がかりな組木の箱だと。中に納めるべき宝が、すなわち、かれだ。私の夢見た〈楽園〉が、ついに完成したのだ」
「……」
「イリヤは何度かここを逃げ出したが、そのたび、領民たちにここへ追いかえされてきた。誓って言うが、かれらに私がそう命じたわけではないよ。かれらは察したのだろう、私が必要としているものを。わが領地、すなわち、迷路のつづきでもある。つまりこの領地すべてもまた、かれのための、巨大な迷路であるといえるね」
「……なぜ、七年も待ったんです? そしてなぜ、いま?」
「七年前、南米に私が築いたザナドゥも、美しい国ではあった。しかし、私は器を完成させることは出来たが、何を入れるかを、考えていなかった。だから、いったん国のしくみが完成してしまうと、あとは退屈でしかなくてね。私は現地の女たちの中から、美しく、賢そうな者を何人か選び出した。だが彼女らは私をおそれてメソメソ泣いてばかりか、でなければ開きなおって計算高いかで、器にふさわしい、育て、護るべき、生きた宝ではなかった。きみたち〈UNCLE〉が介入してきた時、私はむしろホッとしたものだよ」
「……」
「〈雨の森〉に逃げこみ、あの国とともに、私もまたいっそ地上から消えてしまいたかった。……ところが気づいてみると、半死半生の私を、妻が助け出したところだった。私は傷ついた心と体をかかえ、故郷である英国へ帰ってきた。静かに余生を送りたくて、わが先祖の領地に建つ、もともと先祖の住居だった旧い館を買った。それが、このポーロック館だ」
「……」
「この館は荒れほうだいに荒れていたが、バロック時代に造られた迷路や庭園、そして怪しい仕掛けに充ちていた。手入れするのは大変だったが、館に新しい生命を吹きこむ作業が、私にもまた、新しい生命を吹きこんでくれた。私はしだいに、この館の一部となっていく自分を感じた。七年なぞ、あっという間だったよ」
「……」
「そうしてそれがようやく完成したとき、この楽しい仕掛けだらけの館に、かつて我がザナドゥを滅ぼしたきみたち……まずはきみと、ハンクを呼んで、翻弄してやろうと思った。調べてみると、ハンクはすでに引退、きみは新米の相棒と組んでると聞いた。きみを遠回しに、じわじわ追いつめたかったから、手はじめにその相棒を、嫌がらせに拉致した。
当初はただ、なかなか綺麗な顔だちの若造だな、くらいにしか思わなかったのだが……」
「……」ここが肝腎なところだ。ソロはグラスを口元に運ぶ手を休め、じっとパートリッヂを見た。
パートリッヂの眼はひたすらグラスの中の琥珀色に注がれていたが、それは目の前のものを見ている眼ではなかった。
「あの迷路を通って、かれをあの地下室へ連れこみ、壁の手枷につないだ。きみたちに送る写真を鮮明に撮ろうと、盛大に松明の火を焚いた。そして……ふりむくと、彼はふしぎな、暗い光をたたえた眼で、私を見ていた。まるで夜の湖のさざ波のようだった……おびえ、怒り、悲しみ、恐怖、反発、哀れみ、苦痛、快楽、嗜虐、いずれでもあり、いずれでもない、あんなふしぎな光をたたえた眼は、見たことがなかった。私は、夢中で写真を撮った……あれを見たろう?」
「ええ……まあ……」
「しょせん写真機なぞでは、私の見たものを完全には捕えきれなかったがね。あのとき私は、迷路とは何か、その本質を、一瞬にして悟ったのだ。そこにいるかれはすでに、迷路のあるじだった。智慧ある者のみ触れることの許される、貴重な、神聖な秘宝だ……むしろ、迷路そのものが、この館が、この地が、かれを待ちうけ、私をしてかれを誘(いざな)わしめたのだ、という啓示にうたれた。もはや復讐など、どうでもよくなった。あのザナドゥよりもっと完成された〈楽園〉が、ここに出現したのだからね。私は、かれに降伏した。かしずいた。ひざまずいたのだ」
「……」
すこし間を置き、パートリッヂは口調をあらためて、訊いた。
「かれは、あの地下室で、どんなふうに私と過ごしているか、きみに話したかね?」
「……いいえ」
聞きたいような、聞きたくないような。言いかけて語尾をにごしたときのイリヤの苦い顔が、ふとソロの眼前に浮かんだ。
「心配するようなことは、なにもない。私はこのとおりの老人だ」パートリッジは腕を拡げ、自嘲するように笑った。「男性としての私は、とっくに、あの〈雨の森〉で滅びてしまっているよ。……失礼。ここまで言う必要もなかったかな」
ソロはせきばらいし、照れかくしに煙草を取り出して、くわえた。
「……さよう、私は紳士だ。この館を買ったら、たまたまあんな部屋が、あらゆる拷問具つきで備わっていただけのことだ。イリヤにも判っているはずだ、私はひとを傷つけることなぞ好まぬし、ましてや、かれを傷つけることなぞ、思いもよらぬと。……それでも、拷問台にくくられて自由を奪われると、ひとは次になにをされるか判らないと、不安になるものらしいね。ときどき目隠しなぞしてやると、なおさらにね……」
パートリッヂの顔に、七年前の、優雅にして酷薄な気配が表れてきたように思え、ソロは眼をみはった。「なに、ただ、くくりつけるだけだよ。痛がるほど強く拘束もせぬし、かれがあまり嫌がるようなら無理強いもしない。おつきあいは二度と御免だ、なぞと思われたくないのでね。かのサド公爵がそうだったように、もともとこうした遊戯は、貴族のものだよ。……鞭や、銃身や、ナイフの背で愛撫してみたり、松明の火をすぐ目前でちらつかせてみたりと、多少はいたぶったりもするが、ほんの演出、たわむれだよ。薄氷の上に立つような信頼関係、とでもいうかね。私自身、そんなあやうい均衡がいつ破れてしまうか、はらはらしながら、愉(たの)しんでいるのだよ」
「……」
「もっと若いころに出逢っていれば、またちがった関係になれたかもしれぬが……いや、やはり、これでよかったのだろう。いまの私はただ、かれの眼に不安が揺らめくのを見るだけで、充分なのだ。そういう時、かれはとてもいい顔をするからね……美しいのだよ、耐えがたいほどにね」
「……」
パートリッヂの声音はしだいと、詩でも暗誦するような、芝居がかった抑揚をおびてきた。
「そうして……私は、拘束されたかれの、真白なシャツの前を、はだけてゆく、かれの体のあちこちに、古傷が残っている、私はひとつの傷痕を選び、ゆっくり指でなぞる、この傷にまつわる話をしておくれ、と語りかける、……おかげで、いくつも面白い話を聞かせてもらったよ。かれが子どものころキヱフに棲んでいたと、聞いたことあるかね?」
「……もう、いい……!」
「きみは告解師だと言ったろう。告解師が話をさえぎっていいのかね」パートリッヂは冷たく却下した。「断っておくが、私があの部屋へ行かないかねと誘ったとき、かれが拒んだことは、一度もないよ。きみら諜報部員は鍛えてるのだろう、それとも恐いのかね? と言うと、お好きなように、いつもそっけなく一言、そう答えるだけだ。かれの本心は、私にも判らん。どうせこんなご老体、と見くびられてるのかもしれんが、私はそれでも構わんよ」
「……お、奥方は」胸がむかついてきて、ソロは口をはさまずにいられなかった。「奥方は、貴方と、イリヤの、そんな秘密めいた関係を知ってるのか。どう説明してるんだ。かつて生きて帰った者のない〈雨の森〉から、命がけで貴方を救い出したという、あの、けなげな奥方は?」
「マデラインか」パートリッヂの顔から、残忍な愉悦が消え、悲しげな影がそのおもてに射した。「あれはパートリッヂの正統な、直系の裔(すえ)、私は傍系の、最後の生き残りだ。わが一族はもう、彼女と、私の、二人きりなんだ」
「そんなことは聞いてない!」
「まあ聞きたまえ。若いころ、私と逢引きした令嬢はその直後、眠っている間に暴漢に襲われて首を絞められたの、階段を降りているところを背後から突き飛ばされたの、庭にいたらヴェランダから物が落ちてきたのと、きまって凶事にあうと、噂になった。こう見えても、私は若い時分にはけっこう色よいお誘いも多かったのだが、そんな噂が立つにつれ、だれも寄りつかなくなった。幾度か引越もしたが、どこへ行ってもおなじだ……それが、すべてマデラインのしわざと判ったとき、私は家と故郷を捨て、外国へと逃亡した」
「……」
「世界をめぐった果てに南米へたどりつき、私はあのザナドゥを作り上げた。私は何人かの女を選び出して側女としようとしたと、さっき話したね。あるとき彼女たちが次々と血祭りにあげられていくのを見て、私はマデラインがとうとう私を見つけ、追いついてきたことを、知った。そんなふうに〈楽園〉を内部から壊しておいて、〈UNCLE〉にザナドゥの内情を密告したのも、彼女だ。私はいっそ〈雨の森〉で滅びてしまいたかった。……だが、彼女は許してくれなかった。生きろ、と言うのだよ。こんなにも貴方を愛してる、あたくしのために生きてくださいまし、と」
ソロは、あのばら色の頬をした、小柄な淑女を思い出した。たしかに、ゆきすぎた愛情ではある。しかし見方によっては、いちずで可愛い女ではないか。そこまでしてなぜ貴方は……と尋ねかけたとき、パートリッヂが再び口を開いた。
「パートリッヂ一族はかつて純血を重んじ、同族結婚を繰り返した。その濃くなりすぎた血が、最後にあんな怪物を生んだ。あれは一見ふつうの貞淑な女だが、生れつき人間がとうぜん持っているべき何かが、まったく欠けておるのです」
「……」
「さっきも申したとおり、マデラインはパートリッヂの正統な直系の裔、私は傍系、一族最後の生き残りだ。……腹ちがいだが、あれは、私の妹なのです」
「……!」
「兄妹は結婚することが許されぬと、子どものころ乳母から聞かされていらい、彼女は壊れてしまった。私に近づく女という女を、片っぱしから傷つけ、しりぞけずにおかなかった。……が、〈雨の森〉で負った重傷のため男性機能を失ったと知ったとき、私はとうとう決心した。判った、ならばマデライン、お前を娶ろう。子孫さえ残さなければ、こんな呪われた一族は、どうせわれわれの代で滅びてしまうのだからと。彼女は泣いて喜んだ。私は、彼女を妻とした。すべて丸くおさまった。どうせ先は長くなし、私が他の女に心を奪われるようなことはもうあるまい、そう思ったから。ぐうぜん、邪悪な玩具箱のように面白い館も手に入った。思い残すことはただひとつ、私は生涯さいごの道楽として、きみと〈UNCLE〉への復讐を計画したが……」
「……イリヤに、そのことを……?」
「話したよ。私は思いがけなく、かれに強く執着してしまったから、マデラインが当然、危険なことを仕掛けてくると思ったからね。イリヤはただ、そうですか、と答えただけだった。……ところが、ここがもっとも不思議なところなのだが、マデラインはイリヤに、すっかりうちとけてしまった。彼女は、なんて魅力的なかたなのかしら、午後のお茶の時間だけは、あのかたはあたくしのもの、と主張してゆずらんのだよ。毎日、何やら楽しそうに談笑しておるよ。私が近づいていくと、二人でくすくす笑いながらぴたりと話をやめてしまうから、なにを話しておるかは知らんがね。彼女にとってもどうやら、かれだけは特別らしい。つくづく、イリヤとはふしぎな存在だと思うよ」
「……」
「判るかね。何もかも、手に入れた。〈楽園〉は、ここにある。迷路も、完璧なすがたとなって完成した。イリヤがここを訪れ、すべてを補填し、この世界の中心となった。私も、マデラインも、満足しておる。私たちは、奇蹟を見たのだ」
「……ならば、なぜ、ぼくをここへ呼んだんです? ぼくを呼ぶことは、貴方から言い出したと、イリヤは言っていたが」
「たとえ呼ばなくても、早晩きみは、イリヤ救出にやってくる立場だろう? ならば、初めから御招待したかった。わが美学を解ろうともせぬ無骨者に荒らされては、せっかくの完璧な迷路が台なしだ。きみなら解ってくれると思った。それに」
パートリッヂはおだやかに膝の上で指を組んだ。
「この世界の内部にいるわれわれには、この均衡をこわすことはできぬ。外部からの力が働かなくてはどうにもならんのだよ。ソロくん、きみこそ適任ではないか。自分でもそう思わんかね?」
「……勝手なことを」
「どうかねソロくん、明日もう一度、あの部屋にイリヤを待たせておくから、全力をかたむけて、あの迷路にいどんでみたまえ。仕掛けはだいたい判ったろうから、こんどは突破できるかもしれんよ。智慧をめぐらし、正しき手順を踏まねば開かず、中の宝を手に入れることあたわず。……それでこそ、ほんものの迷路というものだ」
「正しき道をひとすじに進む困難、悪しき誘惑の曲がりくねった袋小路、そして、達成感。……でしたっけ」
「智慧なき者、触るるを許さず、だよ。……では、そろそろ寝(やす)もうか」
人差指を唇に当て、さいごにパートリッヂは思わせぶりな微笑とともに、そう言った。
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