失楽園之記 〜ポーロック館のパートリッヂ一族〜
五、
「来たね……お見事だ、ソロくん」
隠し通路の奥、見覚えある部屋。ソロがライフルをかまえ踏みこんでいくと、パートリッヂはおちついた声で言った。
その場の光景に、ソロは眼を疑った。
全身を引き伸ばして苦痛をあたえる仕掛けの古風な拷問台に、イリヤは四肢をくくりつけられ、横たわっていた。眉をひそめ、眼を閉じた横顔は紅潮し、肩で大きく息を荒げている。真白なシャツの、左胸が紅く染まり、はげしく上下していた。パートリッヂは、ナイフを手に、そんなイリヤの上にかがみこんでいた。静かな、悲しげな顔をしていた。
「……あんたは……紳士だと、言ったじゃないか……!」
眼もくらむような怒りとともに、ソロはライフルの銃口を、パートリッヂに向けた。パートリッヂは妙にさめた声で、言った。
「飼育係のライフルを奪ったのか。私の指示で、弾丸は込めておらぬはずだよ」
「実戦ではいろんな使い方があるんだ。台尻でぶん殴られたいか? イリヤから離れろ。まず、そのナイフを捨てろ!」
「ソロくん、諜報部員らしいきみを久方ぶりに拝見できて、うれしいよ。七年の間に、すっかり一人前になったものだ」
パートリッヂは優雅な所作で、ナイフを床に放り出し、双手を上げてみせた。ソロはライフルの銃口で、乱暴にパートリッヂを壁ぎわへと押しやった。
パートリッヂは逆らわなかった。終始、ゆうべとおなじ、面白がっている眼をしていた。
「イリヤ!」
このていどの出血なら、傷は浅い、よもや命に別条はあるまい。そう思いつつも、傷口を調べようとシャツの前をはだけようとしたら、眼を閉じて横を向いていたイリヤがいきなり顔をあおむけて眼を見開き、するどく叫んだ。
「なに、すんだよ! おれにさわんな!」
「イリヤ……ぼくだよ。判らないのか?」
もどかしげに拘束された体でもがきながら、乱れて眼にかかる髪を、イリヤはせつなげに首を振って、はねのけようとした。動きにつれてプラチナ・ブロンドが、眼に沁みるほどあざやかに、拡がり、流れた。乱れた髪の奥に、なにかの激情をいっぱいにたたえて、うるんだ眼があった。まだ、肩で大きく息をしている。なぜ、そんなに、息を切らしてる……? いつもはロシア人らしく白皙の頬に、いまはあざやかな血の色がさしている。
ソロは、息を呑んだ。……連想するなといっても、無理だ。ふだんは慎みぶかい女たちが、すべてを脱ぎ捨て、薄暗がりのなか、ある瞬間、ソロにだけ見せてくれた、そういう姿態に、いやというほど似ていた。パートリッヂが忍び笑う声が、背後から聞こえた。
「……だいじょうぶか、イリヤ?」
ようやく、ソロの喉から、かすれ声が出た。おずおず、眼の上にかぶさる乱れ髪をかきあげてやると、イリヤはうるさそうに身をよじってソロの手をはねのけ、苛立ったときの癖なのだが、片眼だけを細め、じれったそうに叫んだ。
「これが、だいじょうぶに見えるかよ! 傷は大したことない、それより早く、これ、ほどいてくれよ!」
拘束を解かれるのも待ちきれぬように、イリヤは跳ね起きて拷問台から飛びおり、つかつかパートリッヂにつめよると、力いっぱい、殴り飛ばした。
いきおいで壁に叩きつけられたパートリッヂは、殴られた頬をさすりながら、ただ、苦く笑っていた。
いつもの敏捷さでイリヤが地下室を飛び出していったあと、少しためらってから、ソロは壁にもたれてすわっているパートリッヂのとなりに、腰をおろした。
「……なにも感じてないわけ、ないでしょう」
「……?」
「ゆうべ貴方に訊かれた質問にまだ、答えてなかった。『日々かれと居て、きみは本当になにも感じないのかね』そう訊いたでしょう? ぼくはまだ〈UNCLE〉2課で現役でいられるほど若いのだし、〈雨の森〉で遭難したこともないのだし」
ソロが片眼をつむってみせると、パートリッヂは笑い出した。
「つらい立場だな、きみも」
「たしかに、楽じゃない。イリヤを護るより、イリヤから周囲と、自分自身を護るほうが、骨が折れます……イリヤに何をしたんです?」
「なに、例によって、いつものたわむれだよ」煙草を取り出してソロにも勧め、パートリッヂは淡々と語りはじめた。
「この館を気に入っているのだろう、私の全財産を遺してほしくはないかね。そう尋ねた。こんな遊びもこれが最後だ、だからどうだね、ただ一度だけ接吻を許してくれたら、すべてさしあげよう、とね。そうしたら……」
ソロが眉をひそめるのを、パートリッヂは面白そうに横目で見やった。
「かれは、なんと答えたと思う? 私の財産をいっさいかれに遺さない、そう約束するならば、だと。お金が目当てだったわけじゃないんだ、そう思われたくないんです、なぞと言いおった。あのとおり手脚を拘束されていながら、なんと傲慢(ごうまん)なせりふではないかね。……私はそれを約束し、唇を重ねながら、ひそかにナイフを抜き、かれの心臓の真上を、浅く、刺してやった。かれは驚いて、しきりと何か訴えたそうにもがいていたが、私はかまわず、角度を変えては何度も何度も、かれに接吻しつづけてやった。水仕掛けで頭上の扉が開く音、きみの足音がこの地下室への階段を降りてくる音を聞きながら、きみがここにすがたを現わす、直前までね」
パートリッヂの煙草は、フランス産であるらしく、味も香りも重く、強く、ソロを噎せさせた。
「こ……殺すつもりだったんですか、かれを?」
「ひょっとしてきみが現れなければ、あるいはそうしていたかもしれんな」パートリッヂは、しみじみと、楽しげだった。
「なに、私はただ、かれの体のどこかに、私もまた痕を残しておきたくなったのだよ。この先、あの心臓の真上の傷痕を見るたび、かれは私を思い出さずにはおれぬだろう。私はこれまでの生涯でただ一度、紳士としてのふるまいを棄てた。かれが嫌がることを無理強いしたのも、今日がはじめてだ。最初で、最後だったのだよ。……私を軽蔑するかね?」
「ぼくがほんものの告解師なら、罪を裁くべきなんでしょうけど、あいにくとね……」
疲れた声で、ソロは答えた。
ソロが地下室から地上に出ると、手入れのゆきとどいた芝生の上で、いつもの午後のお茶会が開かれているのが見えた。イリヤは籐の椅子を並べた上にぐったり体を伸ばし、腕を上げて眼元をおおっていた。マデライン=パートリッヂはイリヤの胸元の傷をやさしい手つきで治療してやりながら、ソロさんもお茶をいかが、少し冷めてしまいましたけど、と笑顔で声をかけてきた。いいや、ぼくは今日は結構です、とソロは答えつつ、今夜はどこへ行ったらおれ好みの南欧ふうの女と、オレンジに檸檬、桃金嬢(ミルテ)に月桂樹の薫る一夜が過ごせるだろう、英国の〈飾り窓の女〉は地下にもぐってて、見つけづらくて面倒だしなあ……などと考えていた。
ソロとイリヤが米国に帰ってまもなく、パートリッヂ夫妻の訃報が〈UNCLE〉英国本部から届いた。館の庭園の一角に作られた毒草園の中、手をとり合い、二人とも眠るようにやすらかな顔で亡くなっていた、という。
かれらの莫大な遺産は、半分は南米のザナドゥのあった土地へ、半分はポーロック館のある地元へと、寄附された。
ポーロック館はその後、とある老貴族が買いとり、執事と二人きりで静かに暮らしているそうだ。新しい館主は、あの妖しげな地下室の存在を、もしかしてずっと知らないままかもしれないな、とソロは思うことがある。
パートリッヂが撮ったイリヤの写真は、ぼくがひそかに処分します、と言って課長からソロが預かったが、それからずっと、ソロの自宅の机の引出しに、こっそりしまいこまれていた。
ポーロック館での出来事の詳細を、イリヤは、ソロにさえいっさい話したがらなかった。ソロがロデリック=パートリッヂといったいなにを話し、なにを知ったかも、聞きたがらなかった。が、NYへ帰る飛行機の中でイリヤは、まだ礼を言ってなかったね……ソロ、助け出してくれてありがとう、とだけ、ぽつりと言った。
どういたしまして、ぼくにはなかなか面白い迷路だったよ、と、ソロは答えた。
『失楽園之記』(了)
2005.3/19
参考資料:『夢の宇宙誌〜コスモグラフィア・ファンタスティカ〜』 澁澤龍彦(河出文庫)
『乱れからくり』 泡坂妻夫(創元文庫)